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10月 06, 2025 12:00pm
私たちが下ろさない負担と結局背負う救い主
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近所のおばあさんとは、ちょうど必要な時になんでも持っているイメージがあります。のど飴、ガム、ティッシュ、ばんそうこうなど。お出かけしている時そういうおばあさんにお会いすることはよくあるかもしれませんが、ジムみたいなところで見かけることはなかなかないでしょう。ですが、私はジムでこそ見かけたことがあります。

私がジムのトラックで走っていた中、いきなり重たそうな鞄を背負っているおばあさんも走り始めました。何歩かずつ、ストラップの位置を調整してまた走り出しました。その日から、毎日毎日おばあさんが来て重いのを背負いながら走りつづけました。

「あそこのロッカーに鞄を入れれば楽になりますよ。」と言いたい気持ちがありましたが、何も言わずに見ただけです。その風景が今も頭に残ります。おばあさんは、背負わなくてもいいもので負担になっていました。

結局、私たちも同じじゃないですか?

たしかに、ジムで重たい鞄を背負って運動するわけじゃありません。ですが、代わりに心に重たい気持ちを持っているかもしれません。恐怖、心配、ストレス、苦渋、恨み、他人と比べること、恥、罪悪感、罪。持っていれば持っている程、重たくなります。そのおばあさんの鞄みたいに、一歩ずつ負担になって、人生という旅が大変になります。

聖書は、その負担を背負うべきではないとはっきり教えてくれます。神様はその負担をゆだねるように招かれています。「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。」(詩篇55篇22章)イエス様も、マタイによる福音書11章28-30節に次の約束をします。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう…わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」あなたも負担を背負って走ることで疲れていないでしょうか。神様は代わりに負ってくださいます。ただ、あなたがゆだねなければなりません。

時には、その負担になるものが罪であります。ダビデは詩篇38篇4節にこう言います。「わたしの不義はわたしの頭を越え、重荷のように重くて負うことができません。」罪は行動にだけじゃなくて、魂にも影響があって、平和と力を奪います。しかし、神様は私たちが罪を告白するように召されて、私たちがそうすれば許してくださいます。そして、許してくださったのなら、なぜ私たちはそのまま消されたものを背負おうとするんでしょう。

そして、私たちが負担を下ろしてからも孤独じゃありません。神様から聖霊、聖書、そして交わりをくださるのです。ガラテヤ人への手紙6章2節ではこう書いてあります。「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。」時々、休息は一緒に歩む兄弟姉妹から来るのです。

その上に、神様はどんな試練でも意味があると約束します。パウロはコリント人への手紙二4章17節にこう書きます。「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」今日の試練は永遠のためになります。

あなたは何を背負っていますか?思い荷がありませんか?何があっても、十字架にゆだねることができます。

ジムのおばあさんは鞄を下ろさなかったが、あなたはいつでも負担を下ろすことができます。キリストにゆだねて楽になりましょう。

そのように信じてみますか?

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