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11月 17, 2025 10:00am
真理に基づく生活
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私は最近、とある女性と旦那さんが不倫したことについて話しました。その中、彼女はたくさんの友達や親戚から、離婚しないことに対する批判と裁判でお金を取ることで復讐すると促しという反応があったと教えてくれました。会話は進中、その人たちのほとんどががキリストの信者と告白する者だとわかりました。彼女は私にもその人たちにも、神様から旦那さんの心に変わりを待つように導きがあったと感じて神様が結婚関係を直してくださると信じているように伝えたのに、その反応が私にとってとても不安を感じさせるのでした。

きっとその友達や親戚は悪気がなくて、彼女を更なる苦痛から守りたかっただけだと思います。ですが、彼女はそのアドバイスを受けてその通りにしたとしたら、様々な結果があります。そしてその結果を耐えなければならない人は彼女だけで、アドバイスする人たちにはなにもありません。

私は女性の話を聞きながら、周りの人のアドバイスに従うことによってどのように神様の指名を逆らうことになるか考え始めました。とても残念な話ですが、提案の中に不倫から復讐、聖霊の導きを無視すること、容赦しないこと、そして傲慢までもありました。この助言者と言われる人たちからの罪は、彼女にすでに苦痛と裏切りがあったことが弁解になる考えでした。もちろん、彼女は深い苦痛と嘆きの中にいて苦しんでいましたが、同時に神様に頼って聖霊の導きで待って、旦那さんの悔い改めと結婚関係での和解があるまで希望を持っていました。あなたも神様の信徒者でこのような試練を体験したことなのであれば、救い主と過ごすこんな時期が悲喜こもごもだと知っているでしょう。

私たちは他人の罪で傷つくと罪を犯し返しがちですが、それより高い使命が神様からあります。神様は聖書で、聖霊の助けによって肉の欲望を満たさないで神様の本質を見せることができると教えてくださいます。ガラテヤの信徒への手紙5章16-25説にはこう書いてあります。
「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」

私にとって興味深いところは、その女性がもらった提案のほとんどが19節から始まるリスト、肉の望むところの説明の中にあります。それでも、24-25節は私たちがキリストのものだと肉を十字架につけて命をくださる聖霊によって歩むべきだと教えます。私たちは19節の中に自分自身が見えるのであれば、または他人がそういう肉の望むところをするように促しているのであれば、ローマの信徒への手紙8章13節が言うように、本当に「霊によって体の仕業を絶つ」ことができて「生きている」かもう一度考えなければいけないかもしれません。

このシナリオの全体で、私は私たちキリストの体が生活の中に覚えてこなせない他の真実について考え始めました。例えば、現在の文化では信者に平和で豊かな人生があるべきだと思う人がたくさんいると私は気づきました。ですが、これは聖書が教えることに真逆です。ミニストリーの弟子になるテモテに2つ目で最後の手紙を書くパウロは、神様に従う人生を送ろうとする人は迫害を受けると伝えました。(テモテへの手紙二3章12節)テモテが代償を考えて本当の使命かどうか確かめてほしかったです。テモテが試練に踏みこたえるか折れるか確認するためです。

ペトロの手紙一2章20-24節ではこう書いてあります。
「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、 その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」

たくさんの人は、苦しまないはずと思う上に、信者だからサタンの企みが無効とも思い込みます。しかし、コリントの信徒への手紙二11章13-15節ではパウロが教会に偽使徒のことに注意します。サタンこそが光の天使を装うから、その使える者も人々を騙すために義を仕える者を装う時に驚かないように説明します。

もしかしたら、あなたは信者がどのように騙されないようにするか、または苦痛をどうやって耐えられるか今考えているかもしれません。ヨハネによる福音書8章31-32節ではこう書いてあります。「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』」そしてマタイによる福音書4章4節ではこう書いてあります。「人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」

神様の御言葉に基づいて生活を送ることは、その御言葉を信じることから救済をいただくだけじゃなくてどんなように生きるか導いてくれるようにすることです。そうすると、ガラテヤの信徒への手紙5章22-23節で書いているように愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、そして節制が証拠になります。

この投稿の最初に登場した女性には、服従したことで神様が旦那さんに帰らせて、彼女に許す力を与えて、それから旦那さんが神様を信じ始めて今でも御言葉によって導いてくださっている形になりました。

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