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9月 08, 2025 10:00am
言い訳より神聖 神様が私たちをよりいい歩み方に呼ぶ理由
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最近、とある教会の日曜日礼拝の終わりで、私はその牧師が「神様にとって、あなたはどのように生活するかどうでもいい。頑張ればそれで充分」というところを聞きました。

まず言っておきたいですが、この発言は救済に関する言葉で言われたわけではありません。

私たちの救済が行動ではなくて悔い改めによると聖書がはっきり教えてくれます。

エペソ人への手紙2章8-9節には、「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」と書いてあります。

使徒言行録には、「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。」と書いてあります。

さっきの牧師は、発言の最後に「頑張ればそれで充分」があったことでつもりが見えます。

確かに、教会のメンバーを励ますために言われました。

ですが問題は、その励ましによって信徒者が現在の罪に「まぁまぁ」と言ってやり続ける恐れがあります。

神様は信徒者に対する期待を聖書の中に表しました。それは、神聖で歩むことです。

ペトロの手紙一1章13-16節には、「それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。」と書いてあります。

この「帯を締め」という言葉は、1回だけすることではなくて毎回毎回取り組むことです。

私たちは1回だけ心と魂を正義の人生に整えるとしたら、その後罪を起こしたら「まぁ、頑張ったから」と言う誘惑になるでしょう。その考え方は罪を起こすことを繰り返す人生になります。

ですが、毎回毎回「帯を締める」準備をすると、それは神様に従う心を準備する取り組みになります。

罪を起こさずに完璧に生活できる信徒者がいません、というのは現実です。ですが、私たちは呼ばれたように神聖の人生を送るように努力するべきです。

そのために、負担や罪を全て捧げて前にある人生の道を進めるのです。

罪のある私たちを励ます思想の中に生活するよりも、聖書に基づいて罪を認めて自身を清めるように生活すればいいです。

マタイによる福音書5章29節には、「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。」と書いてあります。

キリストのように神聖で歩んで、それによって周りの人が救われるようにキリストを示すと使命されているのです。

その上に、イエス様が再臨する時私たちが清められて永遠に神様と生きるような準備にもなります。

これからまた別の重要点があります。神様は私たちが犠牲によって天国に入ってから、信仰によってどんな人生を送ったか審判します。

これについて、コリントの信徒への手紙一3章12-13節には「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう」と書いてあります。

私たち信徒者は、イエス様に目を合わせて人生の中の行動を説明するのです。

これは不安にさせて焦らせるつもりじゃないですが、神様と聖書が神聖になるように私たちも神聖な人生を歩むためであります。

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