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10月 20, 2025 15:00pm
神様の海をわたる導き:嵐の中にある信仰
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025年5月27日、私の悪夢が現実になりました。その時まで、日常がなんでもない日々だったのに、数秒で全てが変わりました。そして、私も変わりました。「まさか本当じゃない、もうすぐ悪夢から起きるはず」と私はその時に思った記憶があります。しかし、起きるなんてありませんでした。目が覚めるままで悪夢を見ていました。

その時、祈ることしかできなかったので、私は祈りました。。。祈って、祈って、祈りました。。。祈って、祈って、祈りました。そして、一週間経っても止めず祈り続けました。テサロニケ人への手紙一5章17節が言う「いつも祈りに励みなさい」の美しみと力をその時体験していました。

ですが、たった一つの考えが頭の中に繰り返しました。それは、なぜ神様はこんなことを許したのかと。今でもその質問に答えを見つけていません。お母さんにも聞いてみたら、その場に私に必要な返事をしてくれました。「アンバー、私が客船で足の骨を折った時も、なぜ神様はそのことを許したでしょう?答えを一生見つけることはないかもしれないけど、かならず何かのために神様が許したのよ。そして益としてくださると忘れないで!」

そう、私は忘れていません。その通り、人生の中にある苦難を立ち向かう他人にも同じ励ましを言ったことがあります。ですが、言われる方では気が楽になりませんでした。ただ、消え残る考えの響きがありました。「神様、なんで?なんで?」

私にとって、いつも感動する神様の主権の一面があります。私の人生にこの出来事があった時、ちょうど聖書の勉強コースを作成しているところでした。それにより、その働きがさらに大切になりました。他人の励ましになるだけじゃなくて、私の人生に反映する内容でした。私は書く中、痛みと嘆きに溺れる気持ちでした。どこに行っても誰も見えない重い荷を背負っていました。魂まで励ましが届かず、何回も神様に喚いていました。

詩篇77篇を書いたアサフのような気持ちです。状況が違いますが、圧倒されて苦しむ気持ちが一緒です。平和がない2人です。そして、苦難の中に神様を求めました。

私の気持ちは、神様が本当に愛であれば、そんなことを決して許さないはずと言っていました。アサフもきっと同じ気持ちに来るしでいました。彼の質問は私のと違いますが、それでも頭がいっぱいでした。「神は私から去ったのか。二度とも恵みを受けることができないのか。まだ忠実であるのか。」

しかしながら、痛みと疑問の中にもアサフは勇気を出す決心をして、それで考え方と気持ちの方向性が変わりました。詩篇では、彼が「『これが運命なのだ。神の祝福はのろいに変わった』 と、私は自分に言い聞かせました。ずっと昔、主のなさった多くの奇跡を思い起こします。あのころのすばらしい恵みが、 いつまでも頭から離れないのです。 どうして、忘れることができましょうか。」

私なら苦しみに圧倒される中に忘れがちなことをアサフが忘れずしました。彼は自分のことから神様に注目を当てました。昔、神様が彼とその民にしてくださったことを覚えました。御言葉も考えました。神様の正義について話しました。

つまり、気持ちを無視して自分自信に神のことを思い知らせました。

気持ちは嘘つくこともあって、未回答の疑問で神様を反対してしまうことになるかもしれません。アサフは、神様とその真実を集中するべきと覚えました。

友よ、神様の忠実を振り返って御言葉からの希望で頭を満たすことに特別な何かがあるかもしれません。次の箇所では、アサフが嘆きの中に賛美を捧げ始めるのです。彼は、「ああ神よ。あなたの道はきよい道です。。。あなたのように力に満ちたお方は、ほかにありません。あなたは奇跡を行う神で、 今でも恐るべき力を発揮なさいます。かつて、あなたはその力強さで、 ヤコブとヨセフの子孫である私たちを 救い出してくださいました。」

人生に大変なことがある時、なんて簡単に忘れてしまうことです!なのに、聖書が賛美の力を見せて神様のことをもう一度教えてくれます。壁が崩れて、牢屋の門が開けて、軍隊が敗北になって、魂が強まるようになります。そして、偉大な神様を体験します。

この篇の最後のところ、アサフは信徒者でも不安させることを言います。「あなたの道は海の底に敷かれていました。 そんな所に道があろうとは、 誰ひとり知らなかったのです。」(詩篇 77:19)

アサフは、神様の主権を認めました。そして、神様は時に、私たちに人生の戦い、傷心、裏切り、紛争、試練など、つまり海を渡る計画があります。私は、海をわたりたくありません。海から救われたいです。それか、となりの陸で行きたいです。わたらなければならないのは、怒涛を立ち向かって耐えなければならないわけになります。ヤコブの手紙1章12節は、試練の中に忍耐する者は幸いであると書いてあります。ローマ人への手紙5章3-4節は、苦しみから忍耐性になり、忍耐性が品性を磨いて希望を与えると書いてあります。そしてイザヤ書40章31節は、神様を待ち望むように命令して、そうすると忍耐する力になると教えます。

忍耐という不愉快でもある言葉から、ためになることがたくさんあります。私も、忍耐するべきの時期にいると知っていました。私の話しにハッピーエンドがあればよかったけれど、そうになりません。神様の力と正義で満たされる話しであり、私は痛みの中にも賛美を捧げることができるようでも、神様が恵みをもって御業を果たしているようでも、益になるようでもあります。

あなたも怒涛の中にいる時、神様の真実と約束から希望をを見つけましょう。見捨てられているわけでも、忘れられているわけでもありません。神様は、私たち神の子が人生の中に近づいて、痛みと沈黙の中にも信頼してほしいです。私たちの先にあることは、神様が知っています。あなたの人生にも、「ついてきなさい」と呼ぶ声でもあり、「この道から離れないのがいい」と教える声でもあります。

そして時に、最も苦しんでいる時に、神様が運んでくださるから何も言いません。

友よ、海にわたる旅を神様にお任せして、忍耐しましょう。必ず道を開いてくださいます。

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