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9月 16, 2025 12:30pm
最も幸せな人
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15「祭の日の喜びの声を知る民はさいわいです。主よ、彼らはみ顔の光のなかを歩み、
16 ひねもす、み名によって喜び、あなたの義をほめたたえます。
17 あなたは彼らの力の栄光だからです。」(詩篇89篇15‐17節)

神様に従う本当の信徒者には、常に喜びが溢れる状況にならない場合、それはたった一つの理由があります。それは、神様の臨在から目線がずれて世からの誘惑、サタンの嘘、そして罪と弱点によって天国から離させられたことです。

信徒者には思い苦難や不幸な時期がないというわけじゃありません。イエス様までそういう時期ありました。ですが、イエス様の臨在の中に歩む真の信徒者は、通常の感情は喜びになります。

すべてが神様の臨在から流れることを知って、毎日自分自身を清めて信徒者全員が訪れることができる天国の玉座の前に来る者は、喜びも毎日あるはずです。詩篇16篇11節にかいてあるように、「あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。」

なんでそんなに幸せなの?
詩篇89篇15‐17節が書いた作者は、世の偶像から離れて人生に最も重要なのが神様に近づいてその臨在に集中することだと気づきました。

「祭の日の喜びの声を知る」
信徒者は天国の歌声を聞いたことがあります。祈り方や神様の臨在に入る方法を教える教会に参加する人はそこで聞こえて、救われた者の叫び声で魂が喜びます。信仰の歌で盛り上がります。天国への讃美歌で喜ぶ信徒者の集まりに参加することが最もの楽しみです。神様の臨在が重くてつい喜びで声をあげる経験があります。

そしたら、「すべてを祈りで」という生活を送って切りがなく祈ることができるようになれば、どこだって神様の満たしてくださる恵みで喜びになります。

「彼らはみ顔の光のなかを歩み」
旧約聖書で「臨在」の意味になる原文は、「パニーム」という言葉です。この聖書では、「顔」と訳されています。旧約聖書にわたって2100回も使われて、時々肉体的な顔の意味になりますがほとんどは神様の臨在という意味です。

相手の近くにいなければ、顔が見えません。詩篇の作者が言うように、神様の臨在に入って毎日毎日「顔の光」によって生活する者なんて、どれだけ幸せでしょう。その光は全てを照らします。

いつか、神様と一緒に永遠に生きて、邪魔もなくて電気の必要もなくて、顔の光だけで全てをいただきます。

「ひねもす、み名によって喜び」
神様の臨在に大抵に入れば、その名だけで喜びになります。神様の性質にある幅広い美しみを知らせる様々の名前があります。

聖書に基づく祈りを捧げる者であれば、「天国におられるお父様」の御前に訪ねて、その名を「あがめる」ことをします。その名や性質を考えるだけで世の暗闇が救われる効果があります。

「あなたの義をほめたたえます」
私たちが住む世には、不正や汚れが溢れます。全てが壊れて、それで喜びを失います。ですが、神様の臨在で「義と公平はあなたのみくらの基」になります。(詩篇89篇14節)

私たちは神様の臨在に過ごすと、この世が最後の居場所じゃなくて、「義」が訪れて全てが正しい場所で生きる始まりがすぐに来ると思い出します。

「あなたは彼らの力の栄光だからです」
私たちは、腕も足も疲れることがあって力に限界があります。周りにある暗闇で魂が重くなることもあります。肉体的な体は毎日毎日老化して、徐々に力を失っていきます。

ですが、「神様を待ち望む」者はワシのような力を毎回頂きます。走っても疲れがなく、年寄りで歩いても気絶しません。

なぜでしょう?いったいどうやってそんなことが?それは、毎日毎日神様の臨在に入って神様からこそ力を頂いているからです。神様からの忍耐性が永遠に続いて、力が無限です。何も恐れなく、どんな現実があっても恵みが直面できる基礎になると知っているからです。神様の確信、そして力は、喜びになります!

神様は私たちと毎日続く仲がほしいですが、私たちも積極的に参加しなければなりません。その臨在は私たちに最も必要なもので、私たちがその臨在に入ると最もの喜びになります。一緒に歩むために私たちを作られ、常に私たちが受け入れて新しくされるように呼んでいます。

神様の臨在の中に生きる者は、なんという素晴らしい褒美でしょう!

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