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12月 03, 2025 10:00am
それだけが必要
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9月、私はクラフトフェアに行きました。道に屋台が端から端まで並んでいました。キャンドル、Tシャツ、焼き菓子などありました。

友達と一緒に、何キロも歩きながら似ているクラフトを見て似ている売り文句を聞きました。

何回も屋台の商品を見ていらないと決める繰り返しをして、やっと写真にある物を見つけました。「降誕、ハナより、6歳。」

手に持って近く見てみました。真珠が頭になる羊、マギの王冠、ワラで寝る赤ちゃん。

とても質素で、とても意味深い。

その場に私はキッチンテーブルで木でできているケーキの台に置いている想像が浮かんできました。完璧なセンターピースでした。

私はクリスマスが大好きです。キラキラと派手にハマっていて仕方がないです。普段なら、飾り付けの得意な親友の言葉にすると、私は「飾りなら、あるほど」という考え方です。

普段なら。

ですけど、今年はこの質素な降誕セットに夢中です。

あまり派手がないところに、私の心に落ち着かせる平和があります。

有名なクリスマス歌の歌詞によると、「年の一番素晴らしい時」ですが、私もきっと読んでいる人の多くも、「素晴らしい」の代わりに別の言葉を入れてもおかしくないかもしれません。

ストレスになる。お金が必要な。疲れさせる。

他にもあるでしょうね。

私と同じだったら、あなたも今の時期、この世に生まれた王イエス様を考えることが中々できません。

私たちと共におられる神、イマヌエルになるために来られた者。

私は教会育ちで、ルカによる福音書2章についての説教を何回も聞いたことがあります。今年のクリスマス礼拝もいつも通りだったが、実際に何かが違いました。

礼拝が始まった時、私はストレスと重い気持ちで精一杯でした。クリスマス時期の予定は台無しになるばかりでした。

もちろん、頭では私が中心じゃないと分かっていましたけど、思う通りに行かない時はついつい不機嫌になってしまいます。

そしたら、牧師(私の旦那)がフィリピの信徒への手紙2章5-8節で説教を始めました。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

それからルカによる福音書2章でクリスマスの話しを読み始めました。羊飼いについて聞く中、私は聖霊からの思いがありました。

羊飼いは、完璧な状況でも、
綺麗で整えている場所でもいらなかったです。

動物のフンの臭いが染まる飼い葉桶が場面になることに問題がありませんでした。

イエス様の存在だけで心が喜んで一緒にいるために走っていくようになりました。

イエス様だけいりました。

聖霊からの思いが続きます。

フィリピに戻ると、肉となった神、王のイエス様を思い出しました。

自分の利益じゃなくて私たちのために全てを捨てて私たちと共に生きるようにおられた者。

そして、王のイエス様が十字架で殺されてまで服従したなら、私も予定、感情、肉から振り向いて従うべきだという、受け止めがたい真実を思いました。

サタンから私の予定と感情に価値があるだけじゃなくて、私が満足するために満たさなければいけないという甘い説得をいつもしています。

でも、それは嘘です。

「命の道を教えてくださいます。 わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます。」詩編16章11節

説教が終わって、私は座ったままで罪を告白して悔い改めました。

聖霊に、クリスマスを祝う場所に対して発言したりケンカを売ったりすることがやめられるように助けをお願いしました。

羊飼いと同じのように、私もイエス様、それだけが必要です。

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