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11月 25, 2025 10:00am
頑固な祈り
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次のシナリオを想像しましょう。周りの人は悪気をもってあなたのことを話しています。嘘をついたり、批判したり、憎しみを広めたりします。知らない内に、仲間と思った人は敵になってきました。今まで優しくしてくれた人であなたがとても大切してきました。怒り、痛み、裏切られた気持ちでいっぱいでしょう。

そして、神様が何も言われません。

あまり嬉しくない想像ですよね?こんな目に会いたい人なんてないけれど、実際に会った人は少なくいません。裏切りの痛みを完全に避けられる人はいません。聖書の人物までもいました。

上のシナリオは、実はある人物の人生にあったもので、体験について詩編を書きました。その人は、ダビデ王です。

詩編109では、ダビデ王が強い言葉を使って神様に本音を言い出します。裏切られて傷ついている気持ちです。自分自身から復讐じゃなくて、神様から正義が欲しがっています。弱っている心で書く言葉によって、ダビデ王は痛みをありのままで表します。ですが、醜い気持ちを神様に吐き出す中、信仰の告白もします。「わたしが祈りをささげても」(詩編109:4)。

神様の加入を諦めないように思い知らせているような言葉です。言葉を丁寧に選ぶ祈りや詩みたいな祈りじゃなくてもいいと分かりました。折れる心とその質問から祈りが自然に流れてきました。

友よ、あなたはこのメッセージをどのように捉えるか知らないけれど、私ならとても慰めになるんです。神様に対して演じる必要なんてありません。本音を祈りにして、どれだけ醜い気持ちでも伝えることができます。

何年前、私は大変な体験がありました。私の生徒1人は、目の前に精神が崩壊しました。気持ちがそのまま出て、大きくてとても見にくいでした。その生徒が私に対して言ったこと、とても腹が立ちました。ただのティーンエイジャーなのに、心の中に恨みが生まれて、どうやって先生として続けるか分かりませんでした。その場に、神様が私に尋ねました。この生徒を覚えて祈るような尋ねです。

覚えて祈るって?本当に戸惑いました。それだけしたくなかったのに。退学や休学などの処分がいいと私はそう感じました。ですが、聖霊からの尋ねが収まりません。神様に従って歩んできた経験からこれはしなければならないことだと分かって、不本意でも「わかった、やる」と思いました。最初は、生徒に神様の罰が下ることで後悔になるように祈っていました。よく「神様、後悔させて!」などの言葉で始まりました。「その酷い言葉に!」復讐と処分を願う祈りでした。

ですが、ダビデ王のように、私も祈り続けました。続けて. . . 続けて. . . 続けました。何週間も何か月も、怒りの祈りが続きました。

間違いなく、人を覚えて祈ることの中、最も難しい一つでした。その子のことで神様へ祈る中、私は必死でマタイによる福音書5章3節に書いている言葉にすると「心の貧しい」でした。前から、私はなんでイエス様がこういう状態になる人に「幸い」と呼ぶだろうと思っていました。私だって、決して幸いじゃなかったのに。ある日、この聖句の別の訳を見つけました。それによって、「心の貧しい」状況が悪いことじゃないと初めて分かりました。その別の訳では、「神様にだけ頼る者」という言い方になりました。. . それなら、心が貧しくてもいいことですね。倒れそうな信仰と欠片の祈りで神様に戻る時こそ、その強い気持ちとお願いで神様に対する渇望になります。絶望な状況こそ、神様に頼り始めます。神様が加入してくださらなければどうするか全く分からない時です。嵐の中に、神様が救命になります。

これはダビデ王も知っていました。山の上でも谷の中でも、ダビデ王は神様を仰ぎ望みました。神様に頼って、神に渇望しました。詩編190編にも、「貧しく乏しい」とも自身に対して言いました(22節)。私にとって、神様はダビデの貧しい心を使って、思う通りに鍛えていました。

プリシラ・シャイラという信者は、「祈りは私たちが望むことから神様の本質に戻づくようになります。」と言います。友よ、その真実が貧しい心から生まれるのです。私も、その体験を振り返ると神様がそうしてくださったと思います。試練になる時期を使って、私に神の愛と恵に渇望する心を作ってくださいました。私の傲慢をなくして、酷い生徒にも慈悲を持つように鍛えてくださいました。沈黙になることは、自分自身も生徒のことも委ねるような目的でした。

その学年にわたって、生徒の態度が変わらなかったですが、私の中に変わりが少しずつありました。段々、心が恨みから慈悲に変わりました。私の祈りは、その生徒に対して私がほしいことじゃなくて神様の計画に基づくようになりました。その生徒が救われるように祈り始めました。話し合って、仲を改善する機会もお願いしました。そして、神様の好意があるように、一番難しい祈りをしました。もちろん、何か月も神様に祈り続けた中、貧しい心のままでした。

ですが、数か月後のある日、その生徒は欠席した授業の宿題をもらうために私に訪ねました。試験のために一緒に復習していた間に、その生徒はいきなりこう言い出しました。「去年、私ってずっと怒っていたの。その時、先生に言ったこと、すみません。」

それで終わりました。. . 生徒は、その時から立ち去りました。短い時間だったけれど、私は心の中に何か感じました。神様は恵みによってくださった祝福でした。一番不思議なところは、私は知らない内にその生徒をすでに許していたんです。祈る中にできるようになったkら、愛と感謝でその瞬間を受け入れました。

人生では、もっとも大切な真実が分かるようになるのは涙、祈り、そして貧しい心を通してです。私は、その経験がこの一つでした。そして、神様がその生徒に対して私に新しい心を与えてくださって、その後でも来る対応しづらい人に関して新しい目をくださったから一番価値がある一つです。

頑固な祈りによって状況が変わります。そして、周りの人も変わって、私たち祈る方も変わります。

その時、私たちが神様を渇望する人になるんです。

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