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6月 17, 2026 10:00am
いじめ
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1890年、エイミーレ・フューという作者はある話しを出しました。その主人公はテディーという少年で、読者皆を感動させる内容でした。私は、子供が小さい頃に旦那が「テディーのボタン」を読んで上げて、その影響で私の一番好きな話しの1つになりました。テディーのお父さんが戦死した英雄だったことでテディーは何よりお父さんのように兵士になりたいです。ですが、話しの展開でテディーは最も重要な戦いを知るようになります。それは、霊的な戦いなんです。私の一番好きなところ1つは、テディーが主に人生を誓って「主の軍隊」で戦いたいとなるのです。牧師先生に誰が敵になるかと聞くと、牧師先生は知恵豊かに大きい鏡をテディーに示します。そこに、最も危険な敵が自分自身と説明します。応えてテディーはその新しい敵に「いじめ」という名前を付けることにします。このシーンから物語の残りにわたって、テディーが何回も肉と魂の戦いに苦戦して、「いじめ」が勝ちそうになるのに神様の助けでなんとか勝ち抜くと気づきます。

私もこの間、詩編18編を読む中にこの「いじめ」との戦いを思い出しました。主がダビデをサウルから救った時、ダビデはこれを書きました。「敵は力がありわたしを憎む者は勝ち誇っているがなお、主はわたしを救い出される。
彼らが攻め寄せる災いの日主はわたしの支えとなり」(詩編18編18~19節)

私はそれを読んで、自分の「強い、強すぎる」敵ばかり考えていました。あなたにもそう思う何かがあるでしょう。罪がこっそりとやってきて、私の肉も信仰も弱い日があります。その日、まさに最も危険な敵が自分自身です。その肉と魂の戦いがある日、サタンからの誘惑や落胆させる言葉さえなくても、私は自分の手で十分失敗します。でも、使徒パウロもその日がありました。聖霊の啓示によって次を書きました。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマの信徒への手紙7章18~24節)

ここまで読んで最悪な状況に見えますが、パウロは続いてこう書きます。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」(ローマの信徒への手紙7章25節~8章1節)
罪が溢れる日でも、神の言葉が教えてくれる、それより恵みが多いという真実に神様への感謝をささげましょう。

弱い肉と弱い信仰で苦戦する神の子はキリストとその与えてくださった義に完全に信じることができます。聖書が言うように、「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。」(ローマの信徒への手紙8章3~4節)なので、「いじめ」がやってくるために詩編の作者の言葉を覚えていきましょう。「敵は力がありわたしを憎む者は勝ち誇っているがなお、主はわたしを救い出される。彼らが攻め寄せる災いの日主はわたしの支えとなり」(詩編18編18~19節)

Copyright © 2025 by Kimberly Williams @ www.kimberlywilliams.org No part of this article may be reproduced or reprinted without permission in writing from Lifeword.org.